社団法人 日本国際民間協力会
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現地スタッフからのレポート〜現在、村上、折居、渡辺、武末の4名の日本人スタッフが現地で活動中〜
 

【3月19日(金】

  バム最近は25℃前後で涼しい。風が強いときもあるが、以前のような砂嵐ほどではない。

 昨日からスタートした夏物衣料の配給をやってて感じることだが、キャンプ住民の気が立っている。というのも、サイズ交換、デザインが気に入らなくての交換、並ぶのにしびれを切らしての文句などなど、これらの不満は以前もあったが、最近の不満のぶつけ方が非常に荒くなっている。こちらが全員分のサイズなどを調べて、満足いくように配給するなんて現実的に無理である。そこで交換の要求に来た人には、いくつかのサイズを適当に振り分けて入れているので住民の間でなんとか話し合って交換してくれと頼んでいるが、全く聞き入れる様子もなくサイズを合わせるのはそっちの義務だとまで言ってくる。テント前にはロープを張って内側には入って来れないようにしているが、そんなものはおかまいなく入ってきて叫び訴える人、しまいには一度受け取った衣服を投げつけてくる人まである 。

 このような状況を見ていると、被災者の心の余裕がなくなってきているのを実感する。テント生活も3ヶ月を過ぎ、物はある程度満たされてはいるものの、通常の生活に戻れる見込みが全く見えない、どうにかしなきゃならないのに何もできない、何もできないまま時間とストレスが溜まっていき不満があると抑えられずに爆発してしまう、そんな切羽詰った心境が彼らの行動言動を見ていると伝わってくる。

 このような彼らの行動に対してこちらも必死に抑えながら対応しているが、やはり抑えられない場面も出てくる。一日に数百人分の衣料品を詰めて、登録をして、クレームに対応して、ありがとうの言葉はほとんど言わず当たり前のように持って帰る被災者、言われるのは大声でのクレームばかり。被災者にとって夏服は必須であり求められているのは、ほとんどの住民が受け取りに来たことや、我先にと登録をしようとすること、何十分待っても受取に並んでいること、配給が始まる前から列を作って待っていることなどから明らかである。このような行動は他のアイテムの配給ではほとんど見られない。しかし、助けたいと思ってやっているのに、文句、怒りばかりで返されるとなかなか我慢できないものである。これは日本人スタッフよりも現地スタッフに顕著で、その中でも特に被災者であるスタッフの怒りが強く感じられた。彼らは被災者として助けられる立場でありながら、NICCOの活動に協力して助ける立場にも立っている。どちらの状況も知っている彼らは、その矛盾、状況の難しさを一番感じる立場であるに違いない。彼らはNICCOの活動、状況をよく理解してくれており、先頭に立って被災者に分かってもらおうと説得していたが、やはり被災者にそれを聞き入れる余裕はなかった。

 配給終了後、彼ら被災者スタッフは非常に落胆していたが、僕はこういう考えで行動してくれる人がいるだけでもこの先のバムはなんとかなるだろうという気がした。今の被災者の姿勢は明からに受身である。状況的に自分から行動することができないので受身にならざるをえないということもある。しかし、近い将来自ら行動しなければならない時期が必ず来る。その時に周りの状況を理解し、状況に合った能動的な行動を選択できる人がバムの再建を効果的に進めていくのに重要だと思うのだ。その芽を、今回の配給で見ることができたと思う。加えると、配給終了後NICCOテント前に数人の女性が集まり、NICCOの活動は重要だからNICCOに協力しようと話合っている姿が見られた。おっ、コミュニティー開発の種が確実に植わっているのではないだろうか?こんなことから、数字には表れない援助の影響、それを今回作り出すことができたのではないかと思う。高濃度な一日でした。


【3月22日(月)】

 午前中いつも通り8時15分にミニバスのお迎え。NICCOテントで朝食を取ろうかと思ったが、朝一にトイレの苦情が来て、村上さんがそれに対応、イラン人のプロジェクト-オフィサーの不在中の工事をチェックする人がいなくなり、手抜き工事になったようだった。

 実は今日が衣料品の配給最終日である。ううむ、思えば長かったなぁ。。。イランへ着いた2日目から衣料品の配給に携わり、2月2日からは第10区の衣料品配給、いろいろ紆余曲折を経ながら今のシステムを作り上げてきた。大袈裟かもしれないけど、バムで作りあげた配給システム(NICCO方式)は、配給に携わったみんなの血と汗と涙の結晶だと思う。それも今日で最後、なんか全然実感がわかなかったが、なんだか寂しい感じがした。ま、しかし仕事仕事ということで、いつも通り準備をし、すでに並んでいる被災者に、紐から内側にはいらないで!と叫び、あちこち回って状況を把握。そんなこんなでなんとか午前中を乗り切った。

 午後13時ごろに昼食を取り、しばらく休憩。この時間陽射しが一番きつく、気温も上がるのでイランではお昼寝タイムであるのが一般的なようだ。赤新月社の配給場所で配給をやっているときもそうだったが、寝てしまう人が多い。15時ごろに寝ている人を起こし、再び配給へ。しかし今日はこれまでとは全く違い、倉庫前には誰も並んでいなかった。しばらく待ってもほとんど人は現れず、16時を回ってポツポツときだした。もしやと思って登録シートを調べてみたところ、やはり午前中でほとんどの配給は終わっていた。そこで、あとは来た人に対して個別に対応することにして、倉庫の整理を始めた。第10区用の衣料品の在庫確認を齋藤さんに任せ、僕は内務省管轄の被災者キャンプ用夏服衣料の整理をし、最終的な在庫数を計算して倉庫整理は終了。18時過ぎにNICCOテントへ戻った。その後は夕食までゆっくり過ごし、近くで子供用に映画の上映をしていたので見に行ったりした。夕食はいつも通りレストランテントで取り、21時過ぎにホテルへ戻る。


【3月23日(火)】

バム快晴、朝は非常に寒いが昼間は気温があがりちょうど過ごしやすい気温に。

 今日の朝は非常に気温が低く、ほんとに冬に戻った感じだった。空気も澄んでおり、山がとてもきれいに見えていて、思わず見入ってしまった。バムに来たばかりの頃は山の中腹まで雪が被っており雪山を眺める景色だったが、今は山の頂上付近にだけわずかに残っているのみである。季節が進んだことを感じ取れる風景だった。

 配給が昨日で終了したので忙しくすることもなく、これからは第10区のトイレシャワーに集中してやっていけることになった。トイレシャワーの建設に携わっていたトラックドライバーのシャハローン、通訳のアミンとで厚紙で作った地図上にトイレシャワーの位置をポイントしていった。この情報は後々に報告書に使うことになる。午前中を通してこの作業を行った。午後15時半頃から第10区にアミンとドライバーシャハローンのトラックに乗り込みシャワートイレのデータ取り、写真撮りを行った。17時半頃、調査を終了してイラン保健省が入っているコネックス(コンテナ型仮設住宅)に向かった。そこで現在のトイレシャワー導入状況や予定数を聞こうかと思ったが、保健省側も正確には把握してないということで、全く同じ質問をされた。その他にもいろいろ要求があったが、この場では決められないので夜にミーティングを行う約束をしてキャンプに戻った。

 しっかしこっちの人の話は長い。保健省に赴く前に通訳アミンに、今日はこれこれを知りたいからこれこれをはっきりさせてくれと日程表を示したつもりだったが、全く違う話で盛り上がり20分ぐらいで済ませようと思っていたミーティングが結局40分以上になってしまった。こういうときに言葉が分からないのは辛い。通訳に訳してもらうのだが、一人一人の話が長く、流れがなかなかつかみにくい。長い話に長い返しがあるので僕はその間じっとしているしかない。自分の力量のなさも感じるが、やっぱりこっちの人の性格なのだろう。半ばあきらめて聞いている。


【3月27日(土)】

バム暑い、テント内は42度を記録。

 つい数日前の気温が嘘のように今日は非常に暑くなった。午前中からテント内は42度まで上昇し蒸し風呂を通り越してオーブンのような熱気となってしまった。逆にテントの外にいた方が風があたって涼しく、影に入るとひんやりするぐらいである。昼間になるとみんな影に入り時間をつぶしているのを目にする、これは習慣なんだろう。午前中朝食後は光藤さんと会計ファイルの簡略化について話し、昨日考えた方法を使ってみることにした。

 その後、ボランティアのナザニンに手伝ってもらい第10区の紙地図へまだ書き込んでいなかったシャワートイレの場所を記入、今後行う調査の場所確認を行った。第10区のトイレシャワーのデータ取りはこれまでに30ほどは終わっているのだが、残りも30ほどあり、バムにいれる残り時間を考えると早急に終わらせねばならない仕事だ。ちなみにデータ取りというのは、第10区に設置した簡易シャワー・トイレの場所に行き、そのシャワー・トイレの管理を任されている近くに住む住人にインタビューを行う。何人ぐらいが使用しているか、使用頻度はなど5つの質問を聞き、シャワー・トイレの写真、周囲の状況が分かる写真を撮影して、地図上で場所が間違いないか確認して一つの場所を終わる。大体15分ほどで終わるが、その場所を探すのに結構時間が掛かってしまい数が伸び悩んでいるのが現状である。しかし、最近保健省や以前建設を行っていたNICCO技術者と連絡を取ったことで大体のロケーションが把握できており、今後のスピードアップが図れると考えている。

 実は一番時間が掛かるのは、住民の苦情を聞くことである。設置したとは言え、使っている間に不具合も出てくる。そのような苦情は保健省が担当することになっているのだが、やはりその場に来た我々に言ってしまうのも無理は無い。かといってこっちは無視するわけにはいかないので、今のところ話を聞き、メモを取っている。それ以外にも突然道で呼び止められて、うちにもシャワーを作ってほしいから見に来てくれと言われたりもする。やはりシャワー・トイレは毎日の生活に欠かせないもの、近くにあってほしいというのが当たり前の要求だろう。今の状況ではどうにもできない自分に歯がゆさを感じながらも、一応視察に行きふむふむと頷いて、保健省が建設場所の選定を行っているからそちらに言ってくださいとお役所的な答えしかできないのであった。

 しかしそれしか答えようがないのかもしれない。このような地域では需要と供給のバランスは全く取れていない、過大な需要に対して過小な供給、しかしその差を埋めることが必ずしも復興を意味するわけではないのも事実。その見極めが重要なんだと僕は思う。今いったい被災者はどのような状態にあるのか、時期的に被災者にとって必要なものは何か、適切な援助の方法は、程度はどれぐらいか、などなどを吟味をして最適な方法で援助ができるのが理想だろう。今回の派遣で緊急援助の最終段階から復興援助へ移る過程を経験させてもらったが、最適な援助がどのようなものかというノウハウを学ばせてもらえた気がする。


【3月28日(日)】

バム、雲が幾分出ているが快晴。結構風があって陰は涼しく過ごしやすい。

 午前中10時半ごろ通訳アミンと共に第10区へ。昨日今日のデータを取る場所は現在工事を行っている技術者とは別の技術者が建設したシャワーなので場所の正確な位置データが無く、電話で問い合わせたメモしかない。一応住所を聞いてあるのだが、どこそこ通りのなんとか交差点を曲がっただれ某さんの家などというような住所で番地まで分かっているわけではない。そこで近くの人に聞きながらのシャワー探しとなる。これが結構時間を食ってしまい、午前中は思ったより数が伸び悩んでしまった。午後3時過ぎに第10区へ向かいデータ取りを再開した。

 データ取りは車で行くためいろんな場所を見ることができる。仕事以上にこの経験は非常に貴重なものだと思う。シャワートイレを建設している場所は第10区内なので、同じ場所で以前夜の配給を行っており一度歩いている場所もある。しかしその時は夜で周りの状況や生活がどうなっているのかなどを実際に見ることはできなかった。しかしこのデータ取りでは朝も昼も見ることができて被災者の状況が手に取るように感じることができる、これ以上ない経験なのである。そんな行動の中で最近感じることは再建が進んでいるということである。町というような大きな単位でもそうだが、個人の家でも瓦礫の撤去や工事を自分達で始めているところも少なくない。しかし、ある被災者からの話によると、ワーカーの人数が極端に減ってしまったということである。もちろん地震前に比べての話だが、現在はワーカーが足りない状況にあり、瓦礫の撤去など家族総出で行っているという。女性が埃まみれになってレンガを拾っては投げて片付けている光景も目にする。瓦礫と化した町の中にそんな光景を見ながら仮設シャワートイレの調査をする、ここは被災地だということを実感する毎日です。


【3月31日(水)】

バム希望的な曇り!午前中は雨が降りそうな空だったが、結局降らなかった。

 涼しくて気分がよい朝。晴れてないのに清々しい気持ちに慣れるのはバムならではだろう。面白い経験をしてると思う。10時過ぎに第10区へデータ取りに出かけた。今日は写真が抜け落ちてたところと、新しく完成したシャワールームを3つほど調査した。やはりシャワーは必須らしく、今日訪れた箇所の一つでとても感謝され、お茶まで誘われた。時間があまりなかったので断ったが、その気持ちがとてもうれしく、建設をした甲斐があるなぁと感じた。ただし、うまく機能していない場所もあり苦情を言われることも少なくない。建設完了後の苦情に関しては保健省が担当することになっているが、日本人である僕がじきじきにその場所まで行くと言われないはずがない。第10区では衣料品の配給も行ったため日本人を見るとNICCOとまでなってしまっている人もいる。苦情を聞かないというわけにもいかないので、メモを取っている。

 12時30ごろ内務省キャンプへ戻り昼食。午後SPRC(Society for Protecting the Rights of the Child)というNGOが衣料品の在庫を引き取りにきて、衣料品が全て終了した。なんだか正直あっけない終わり方だったが、こっちに来てからの2ヶ月ちょっと、服を配りに配り、ついに終わった。夕食前に第10区で幼稚園を開いているという人達がNICCOテントに来訪、扇風機やクーラーが一番ほしいがもらえる物ならなんでももらいたいという要求だった。検討しておくので明日出直してくださいと伝えた。夕食までは技術者への支払いを行ったり、レポートを書いたりして過ごした。今日が通訳メラートの最後の日で、彼は泣く泣く帰っていった。


【4月7日(水)】

バム晴れ。それほど暑くなかったがやっぱり暑かった(どっちやねん!)

 スタッフがどんどんいなくなっていく。イランの格言のようなものに「Ali Monde Va Hozash(アリ ムンド ヴァ ホウゼシュ)」というのがある。みんな去って自分だけが残ったという意味の言葉で管理アシスタントヤズダンは人が去ったあとにしみじみと呟いている。ほんとにそんな感じだ。午前中いつも通りヤズダンのお迎えで内務省キャンプへ。

 今日は第10区調査最後の日であり記念すべき一日になるだろう(大袈裟!?)。いつもの朝食を済ませ、第10区シャワートイレのマッププリントアウトに取りかかる。これは完全に完成したとは言えないのだが、村上さんが行く予定の保健省との引継ぎに必要なのでデータとして使える状態にした。プリントアウトが終わった後、通訳ハディージェと共に第10区へ向かう。最後の一箇所のデータを取り終え第10区は無事終了、といっても多分日本に帰ってからまとめが必要だが。

 午後はラジオ到着待ちとなった。ちょうど夕食が終わった頃にラジオが到着。村上さん、ヤズダン、ドライバーのシャハローンで倉庫テントに向かい、荷降ろしと数の確認を行った。ラジオといえども精密機械なのでトラックでの輸送中に壊れはしないかと思っていたが、思っていた以上に丈夫なダンボールとスチロールの入った梱包で破損はないようで、数も正確に送られてきていた。荷降ろしを終わってホテルへもどった。管理アシスタントヤズダンが僕の部屋にシャワーを浴びに来た。ヤズダンが風呂からでてきて第一声、「I have a suggestion(提案がある).」。内容は明日のラジオ配給のことで、明日はNICCOで最後の配給だし、ラジオは高価なもの、最小限に混乱を抑えたいとのことだった。そこで彼が提案したのは、朝食時間に整理券を配って、番号に応じて受け取りに来てもらう時間を変えたらどうかということだった。討論した結果、整理券配布を行うことにした。12時過ぎから整理券作成を開始、プリンターをテントに置いたままだったのでヤズダンが取りに帰り、その間にパソコンで整理券を作成しておいた。20枚ほどをプリントアウトし、それを切っていく作業、番号順に整理する作業。終わったのは2時を過ぎていた。ヤズダンは朝6時ごろから整理券配布を開始するといい、私たちは8時ごろに迎えに来てもらうことにした。管理アシスタントヤズダンは混乱を恐れているようにも思えたが、NICCOで行う最後の配給、どうしても成功させたいという気持ちが強かったように思える。その後、NICCO用の登録用紙をプリントアウト、会計をやってばたんきゅうとなった。


【4月8日(木)

バム晴れ、うっすら曇り

 BAFIAキャンプに到着すると、ヤズダンがNICCOテントの前に机を出して整理券配布を行っていた。人だかりはできていたものの、混乱は全く見られず第一の関門は突破しているようだった。僕は今回はカメラ担当だったので、実質準備や配給を現地スタッフで行った。彼らももうNICCO方式は十分理解してくれていて、どうしたらスムーズに配給が行えるか、自分達で考えるてくれるようになっていた。これを何もしていない自分が見ていて、とてもうれしい気分になった。確実にNICCO方式は根付いた、そう思う。

 9時過ぎに配給がスタートした。倉庫の周りに人だかりはできていたが、整理券の効果は絶大で、呼ばれた人から倉庫の入り口に来て登録を済ませ、ラジオをもらっていく。衣料品配給のときには考えられなかったほどスムーズに配給は進んで、結果的に午前中だけで399個を配った。これはけっこう驚くべき数字、最終的にこの数字を出すことができてとてもうれしかった。アイテムに差がないという原因もあるが、やはりこのスムーズさは他の配給では見られない、NICCOが誇るべき成果だと思う。午後15時、残った2、30人の配給を行う。もう午前中にキャンプ内のほとんどの家庭に配ったので、午後はちらほら、16時半には430個全てを配りきり、ついにNICCOの配給は終了した。

 終了間際、二人の女の子が僕に近づいてきて「これ記念品」と言ってメモ帳の一枚を渡してくれた。ペルシャ語で書かれていたが、最後に英語で、NICCO I love you(NICCO、愛しています)と書かれていた。通訳メラートに訳してもらうとNICCOが帰ってしまうのを聞いてとても寂しい、これまでの援助に対して本当にありがとうということだった。ううぅ、泣けるねぇ、よかったよかった喜んでもらえてよぉ。やっぱ一生懸命やってきた活動に対してありがとうと言われると素直にうれしいものだなぁ。テントに帰ってからも別の女の人が来て、今度は英語で感謝の言葉を書いた手紙をもらった。ほんと、ほんとうれしかった。被災者とはいがみあうこともあったけど、最後はこうしてありがとうを言ってくれる。お互いがんばってきたんだなぁと思った。でも彼らはこれからも頑張っていかなきゃならない。バムが完全に復旧するまでこの調子だと数年どころの話じゃないだろうと思う。それまでNICCOが援助を行うことはできないけど、最初の一歩に対して力になることができたような気がする。テントへ戻り、やはり皆疲れてしまってしばらくの間紅茶を飲んだり、撮ったビデオを見たりしてゆっくり過ごした。夕方、管理アシスタントヤズダンがケルマンへ帰っていった。夕飯は今日もNICCOテントへ運んできてもらい、21時過ぎにホテルへ戻る。もちろんばたんきゅー。


【4月9日(金)】

バム晴れ、うす曇

 午後通訳メラートと共にキャンプ入り口のフェンスに掲げていたNICCOとジャパンプラットフォームの旗を下ろしに行った。これは一ヶ月ほど前に自分が掲げたもので記念にもらうことにした。しかし、砂交じりの風をずっと受けていたのですさまじい状態、ちょっと叩くと黒板消しを叩いたように粉が舞う。でもこれが記念になるんやなぁ、この砂臭さ、もちろん激しい砂嵐を思い出さしてくる。NICCOテントも入り口右にあるNICCOの旗以外の旗は全て取り外した。残っている菓子類は、最近子供がよく遊びにくるのでその子達にあげたりした。

 昼過ぎにどこからともなく子供たちの歌って叫んでいる声がし、その子供達がNICCOテントの前まできた。何かと思えば昨日配給したラジオを抱えてかけているではないか、しかもみんなうれしそうに踊ったり歌ったり、、、しかも僕を呼んで、録音するから何か日本語で歌ってくれと。よしよし、じゃぁということでこっちで歌って管理アシスタントヤズダンにバカ受けした"乾杯"のサビを歌った。すぐに巻き戻して再生してくれ、みなしきりに「サンキュー!」と言って去っていった。ほんとにみんな喜んでくれている、子供たちの楽しそうな笑顔を見ているとなんだか安心して去れる気がした。その後は遊びに来た子供と遊んだり、テントの中で通訳メラートと話をして過ごした。これから荷物を詰めて、明日の朝に、ついについについに2ヶ月間生活したホテルをチェックアウト。明日はバムを去る日だ。


【4月10日(土)】

晴れ。

 9時ごろに管理アシスタントヤズダンがホテルに迎えにきてくれることになっていた。9時前にチェックアウト。大量の札束を払い荷物を軽くしたところでホテルを後にした。午前中キャンプへ到着するなり、管理アシスタントヤズダンが泣いているではないか。村上さんと共にちょっと早いよぉと言いながらヤズダンに泣くな泣くなというが、全く止まらずどこかへ行ってしまった。多分僕らの見えないところで泣いているのだろう。泣き虫通訳メラートはまだ泣いていなかったが、彼の表情も幾分暗く見える。そんな中いつも通りの朝食を済ませて、後片付けに入る。

 まず昨日閉まっていたNGO関係者登録を解除しに国連キャンプへ向かった。今日は開いていたので解除を済ませ、お土産をもらった。村上さんがUNOCHA(国連人道問題調整事務所)に撤退報告、マーシーコーとトイレ、シャワーの管理人引継ぎ交渉を行い、どちらもうまくいったみたいだった。内務省キャンプに戻り、メラートと共に配給の時に使ったペンやテープ、余った鉛筆など文房具の整理をし、使えるものはSPRCに寄付した。マシャッドで使えそうなものは荷物に詰め込んだ。午後いつも通りのレストランテントでの昼食。だがこのいつも通りも今日までである。何もいつもと変わったところがないメニューに逆に安心したりする。テントへ戻り全てのスタッフに給与の支払いをした。支払いが終わったら、これがほんとに最後、NICCOテントの備品の処理を始めた。毛布やマットなどを必要な被災者にあげ、何度も使ったコップや皿をレストランテントに寄付し、残っていたミネラルウォーターや菓子なども配った。どんどんNICCOの面影がなくなっていく。ほぼ全ての物を処理してしまい、テントはすっからかんになった。多分3ヶ月前もこんな感じだったんだろうなぁ。何も無くなったテントの窓から外を見てみる、外の景色は以前に昼寝しながら見た景色となんら変わってはいない。この景色を何も無くなったテントから見るとは思ってもいなかった、でも今その現実がここにある、そうNICCOバム地震復興支援事業は終わったのだ。

 ヤズダンの車に自分達の荷物を詰め込み出発の準備をする。仲良くしていた子供達が集まってきて手を離そうとしない。NICCOのガードや住民らも集まってきて最後の挨拶をする。堅く握手をし、お互い本当にありがとうと言ってキスをする。車に乗り込んでからも子供達が手を離そうとせず、さっきまで笑顔だった彼らの顔に涙が滲んでいる。僕もそれまで泣いてはいなかったが、彼らの寂しそうな目を見ると涙があふれて止まらなかった。16時20分過ぎ、車は動き出しNICCOは内務省キャンプから完全撤収しました。20分ほどでバム空港に到着、ヤズダン、通訳メラート、通訳ハディージェとで荷物を運びチェックインをした。あとは搭乗するのみ、ゲートの前でヤズダン、メラート、ハディージェと別れの挨拶をした。ヤズダンは僕がここイランに入って初めて会ったNICCOスタッフ、1月23日の夜23時過ぎにケルマンの空港に僕を迎えにきてくれた。彼が僕の名前を書いた紙を持って到着口の前で待ってていてくれた姿を今でも鮮明に覚えている。メラートはその次の日にヤズダンの車で一緒にバムに向かった仲間、その二人が今日まで一緒にいてくれた。ハディージェはNICCO現地スタッフで始めての女性、かつ彼女は内務省キャンプに住む被災者の一人。彼女はただ単にNICCOのヘルプとしてだけではなく、キャンプの住民との接点という重要な役を果たしてくれたと思う。彼女の被災者としての意見は僕にとってとても貴重だった。彼女自身、最後の日にNICCOテントで"Here is my life(ここに私の人生があるわ)"と言ってくれた。そんな彼らとも別れゲートをくぐる。別れの寂しさが襲ってくるかと思われたが、逆に安心感に包まれてほっとした気分になった。もしかしたら2ヶ月前にケルマンで空港のゲートをくぐったときから張り詰めていた気持ちが今やっと和らいだのかもしれない。

 飛行機は17時20分頃ほぼ定刻どおりに出発し、ついにバムを離れました。その後テヘランで乗り換え、24時前にマシャッドに到着。ジャバットが迎えに来てくれており、久しぶりのジャバットの車でマシャッドNICCOオフィスに向かった。ジャバットは夜の高速をぶっ飛ばし、まもなくオフィスに到着、智子さんが迎えてくれた。オフィスに入って、その快適さに感激してしまった。2ヶ月確かにホテル住まいだったが、時間的には圧倒的にテントの方が長かった。そのテントの生活に慣れてしまっていて、気持ちいい絨毯や、コンロや洗い場、冷蔵庫がある台所、イスに座って机で仕事ができるオフィス、何もかもが新鮮身を帯びているように感じた。普段の生活ではその便利さに気付かないのだろうが、この2ヶ月のお蔭で自分がどれほど恵まれているか気付くことができたのをしみじみと感じた。荷物を降ろし、しばし村上さん、智子さんとで語り合う。しかしそうゆっくりしている暇はなく、会計の話などを始めた。最後まで話を聞いていようと思ったが劇的な眠気に打ち勝つことができず、お先に失礼して午前3時過ぎにばたんきゅーとなった。




これで、バムの現地スタッフ日誌からの報告は終了です。長い期間に渡ってお読み頂いた皆様、ありがとうございました。

 

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